2010/08/25

近藤富蔵 2

以前から近藤重蔵とその息子の富蔵の生涯が分かる本を探していたのだがなかなか僕の知りたいことについて書かれてある本に出合えなかった。ところがこのようなそのまんまの表題の本が既に20年ほど前に出ていることがつい最近知った。古本でしか手に入らないからネットで調べたら44円から1000円までなんとまあこうも価格に開きが出るとは驚きである。無難なとこで真ん中ぐらいのものを購入して読み始める。文章が読みやすくほぼ1日で読了。作者の久保田暁一さんは最近同じ題材で新しいものを出しているのでそれ以降に新しく仕入れられた情報が織り込まれているのかも知れないなあ。それも読んでみようかと思っている。

2010/08/23

julie samuel

前回シラ・ブラックに似ているけれど違うみたいって書いたら、調べていくうちにこんなのを見つけた。左がシラ・ブラック、右が間違えた「julie samuel」、瓜二つということでもないけど同じ髪型にされたら似てるかも。多分「マージー河のフェリーボート」の撮影時に撮られたショットでしょう。真ん中がジェリー・マースデンで今でもリバプールでは有名人です。なんといってもサッカーのリバプールのテーマソング(応援歌)?(阪神の六甲おろしみたいなもの)は彼である。

2010/08/22

マージー河のフェリーボート

この写真は「マージー河のフェリーボート」という映画のポスター(というより宣伝の写真)である。この映画を見た人は多分1965年に封切されたときに見ているはず(僕は見ていない)。ただ、DVDは出ていない。どうも本国(イギリス)でも出ていないようである。ジェリーとペースメーカーズというバンドが主役の他愛もない映画なんですが、ビートルズのヤアヤアヤアの後にブライアン・エプスタインが作った映画でジョージ・マーティンも映っているからマニアなら持っておきたいDVDである。それに先日から書いているゴールド・フィンガーのマーガレット・ノーランが美術学校のスケッチのモデルとして出ていて後姿であるがガウンを脱ぎ捨てるといったシーンもあって(ユーチューブで見れます)楽しそうである。上の写真はジェリー・マースデンがモデルを見ながら絵を描いているところ。相手の女性はシラ・ブラックかなと思っていたが似ているけれど違うようです。

2010/08/20

目黒新富士

これが昨日書いた「目黒新富士」の浮世絵であります。広重の作品らしい。遠くにほんまもんの富士山と手前に富士山のような格好をした山(丘?)が描かれてある。今のわれわれにはちょっと理解できないものが流行ったんですなあ。さらにネットサーフィンしてたらこのような富士山もどきが東京にはかなりの数あったそうで、ちょっと関東に住んでいないと馴染みがないのかもしれない。
昨日の続き、近藤重蔵はこの新富士を庭に作っていたわけであるが、大阪に転勤の時に隣の任侠あがりの男に世話を頼んだらしい。この男商売がうまかったと見えて隣の垣根を壊して、自分とこは蕎麦屋を始め、新富士を眺めながら蕎麦を食べるという趣向で大いに儲けたらしい。そこに重蔵が帰ってきた。「おまえ何を勝手なことやっとんねん」とまあこんな感じでもめだしたのではないかと推察してます。

2010/08/19

近藤富蔵

八丈島のことを調べるならまず「八丈実記」という書物から入るのが常識なんだそうである。アップしたのがその書物である。東京都所有。この書物を書いたのが八丈島に島流しをされていた「近藤富蔵」という人で、父は「近藤重蔵」という。ここまできたらなんか日本史に出来たよなと思う人が多いであろう。北海道の択捉島にロシアに取られないように標識を立てた人で、間宮林蔵とかみんな「蔵」が付くなあと思って覚えたものである。なんで息子が島流しになったのだ?というと東京の目黒の重蔵の所有する土地をめぐって隣の住人を皆殺しにしたという罪なんですが、事実は事実らしいがそのいきさつについては見方がいろいろあって面白い。この事件で親父さんの方も滋賀の高島に放逐されている。この隣人とのいざこざを調べていたら「目黒新富士」というあまり聞きなれない言葉が出てくるので、ついでにそれも調べていたら面白い事実がいっぱい出てきた。時々仕事で行く東京の恵比寿や中目黒のあたりに近藤重蔵が別宅を持っていたらしい。そこの庭に土を盛って富士山に見立てた山(丘)を作ってそれが評判になって「目黒新富士」と呼ばれたようである(どんなでかい敷地だったのか?近藤重蔵は当時は北海道開拓のおかげで出世していたようである)、今は残っていないが公園に史跡があるようです。安藤広重もこの新富士と本当の富士山を並べた絵を描いているくらいである。それと富士山信仰というのがあったことも知らなかったですね。やたら富士山もどきを作って拝んだようであります。興味のある人は調べてください。で、近藤富蔵は明治になって赦免されて本土に戻ってくるが2年間ほど本土にいて父親の墓参りとかを済ませた後は八丈島に戻って死ぬまで暮らしたそうです。数奇な人生の話が好きな僕としては興味津々の話です。八丈島では英雄のようですよ。

ariane friedrich

ちょっと暗い雰囲気が続いたので原点に戻って明るくミーハー的にいきます。最近注目株の走り高跳びのドイツの美人ジャンパー「ariane friedrich」、お気に入りだったスェーデンのベリクイストが引退してしまったんでさびしいなあと思っていたら、ちゃんと次のお気に入りが出てきてくれました。走り高跳びの空中に浮いているショットは棒高跳びの写真とはまた違う趣があって美しい。 もとの髪の毛は黒髪のようでかなり印象が違う。げに女は恐ろしい。

2010/08/18

墜落遺体

最近はお盆になると、日航機事故と終戦と甲子園の3点セットで過ぎてしまうことが多い。日航機事故は原因についてまだスカッとした気にならないし、終戦は何故戦争になってしまったのかとか、負けるに決まっている戦争を何故したのかとか、その手の本がかなりたまっているので拾い読みする。高校野球は今行われている試合を見ながら昔の思い出にふける。年いってきました。アップしたのは日航機事故の遺体確認の責任者であった「飯塚訓」さんが退官してから書かれた「墜落遺体」という本です。涙なくしては読めない想像を絶する現場の姿が書かれてあります。久しぶりに読み直して改めて大変な事故であったことを痛感しました。

2010/08/17

1979.8.16

この写真は31年前の8月16日である。箕島高校と星稜高校の死闘に決着がつく瞬間である。僕はスポーツは全くだめなグーたら人間であるが高校野球は見るのが好きである。いろいろ名勝負はあるがこの試合はベスト3に入る。あとは三沢高校と松山商業、それに横浜とPLかなあ。坂東さんの名勝負は残念ながら記憶にない。この時の星稜のピッチャーは260球くらい投げた。もう信じられない世界である。ファールフライを落とした選手、くじけず生きていてほしいです。

2010/08/15

鈴木貫太郎

昨日の調印式の写真は1945年9月2日のもので、海外では日本の降伏は調印時つまり9月2日と考える人が多いようである。ただ日本は玉音放送があった(つまり昭和天皇がポツダム宣言を受け入れるように指示したといわれた放送があった)日つまり1945年8月15日をもって降伏したと考える人が多いようである。で、この写真の人は当時の総理大臣の鈴木貫太郎である。まあこの人のおかげで日本はなんとか残ったといえるのではないかと思っている。昭和天皇に聖断(つまり戦争を終わらせる決断)を働きかけたのはこの人だといわれている。

終戦の日

今日は終戦記念日である。甲子園球場では黙祷をささげる。なんでそんなことをするのか知らない若者が多そうである。戦争が終わって65年日本は幸せなはずである。でも日常生活はどうも幸せでないような事件が多いですなあ。この写真は戦艦ミズーリの艦上で重光外務大臣が無条件降伏の調印をしている写真。どうでもいい話ですが戦艦ミズーリという戦艦はその後よく映画に登場します。僕は戦艦大和とこのミズーリが姿の美しさでは双璧だと思ってます。アメリカでもファンが多いのだと思う。

2010/08/14

1985.08.12

この写真は非常に有名な生存者が助けられるところです。この方は平穏に暮らしておられるという記事を読んだことがありますが、そのような記事も迷惑なのかもしれません(迷惑だと思います)。524人の搭乗者のうち4人が生存、つまり520人が亡くなっております。この事故についてもいろいろな諸説が展開されてまして、古くはタイタニックや近くでは9.11の貿易センタービルテロ事件などにおいても様々な陰謀説みたいなものが面白おかしく出てきますが、やはり公式な見解は不自然なように感じます。公式見解が不自然という感じは、ケネディ暗殺事件の公式報告書(名前は忘れました)が出たときも同じような反応だったように記憶しております。ケネディについては今や当時のベトナム戦争推進派の陰謀だったことが当たり前のように語られていますが、日航機事故は「そのような風説」は今のところ出てませんね。真相が果たして明かされるときが来るのでしょうか??

2010/08/12

JA8119

突然この写真、いわゆる日本航空123便の写真であります。ちょうど25年前の1985年8月12日の18時~19時の間に起こった墜落事故です。偶然この事故でなくなった(ほとんど亡くなっている。4人しか助かっていないのだから)方の子供さんと仕事を一緒にしたこともあったり、助かったお方の一人は僕の出身校の先輩がやっている看護学校に来ていたという話を聞いたり、全くの他人事とは云えない気持ちを持っている。仕事で出張がかなりありますが、北海道に行く時以外は新幹線にしてます。一時期この事故に関する本を何冊か読んだことがあります。なぜ落ちたのか?という原因究明の話は多分水掛け論だと思うのですが、遺体収容の苦労話の本は涙無しに読めなかったですね。関係者の苦労は凄まじいものがあったことがわかります。

simon & garfunkel

先日のモンタレー・ポップ・フェスティバルのところでサイモンとガーファンケルを去り行くものとして取り扱ったのですが、このあたり、かなり個人的には苦悩してまして、サイモンとガーファンケルは1970年にはこのアルバム「明日に架ける橋」を大ヒットさせております。僕も大好きですばらしいレコードだと思っておりますが・・・、やはり1967年においてすでに追い出されるべきものであったのではないかという気持ちを今もって持っております。もうデュエット・ユニットの時代でなくなったということは本人たちが良く分かっていたのではないか?じっくり歌を聞かせる時代でなくなったのではないか?ということを良く弁えていたような気がします。でも俺たちにはこれしかないという最後の逆転満塁サヨナラホームランであったような気がするのは間違いでしょうか?

2010/08/11

helen shapiro

これは1962-63年の頃の「ヘレン・シャピロ」というイギリスのまあ当時のアイドル歌手のコンサートのポスターです。ヘレン・シャピロは「子供じゃないの」という大ヒット曲で有名で、日本では弘田三枝子(この漢字だったかな??)がカバーして大ヒットさせている。「HELEN SHAPIRO」と書かれてある下をご覧ください。そうです「BEATLES」の名前があります。ラブ・ミー・ドゥでデビューして、ヘレン・シャピロの前座を務めていたころです。ビートルズの伝記を読んでいてもヘレン・シャピロの名前は良く出てきます。

2010/08/10

monterey pop festival 2

この写真はモンタレー・ポップ・フェスティバルを主催した「ママス&パパス」のママさんの1人のママ・キャス(キャス・エリオット)です。ものすごくでかい体格でそのせいか知らないが若くして亡くなっている。このママ・キャスを悪く言う人はいなくって、同業者(ミュージシャン)からすごく信頼されていたようである。肝っ玉母さんみたいなのかなって勝手に思っていた。僕はそのあたりはほとんど知らなくって、今回昔の記事を読んでいて「ええ人やったんや」って思った次第です。DVDに収録されている「ダンシング・イン・ザ・ストリート」はそう思ってみると感無量です。

2010/08/08

monterey pop festival

1967年にカリフォルニアのモンタレーというところで「monterey pop festival」というのが開催された。ロック史の価値としてはウッドストックがはるかに及ばないくらいの価値のあるものである。何故かといえば、これによってジミヘン、ジャニス・ジョプリン、エレクトリック・フラッグ、ブルース・プロジェクト、クイック・シルバー・メッセンジャー・サービス、ポール・バタフィールド、アル・クーパーといったその後大活躍するアーティストが紹介されたからである。主催者は当時大人気の「ママス&パパス」で、皮肉にもその後1年後に解散。このフェスティバルはなかなか含蓄があって時代と共に去るものと来るものの競演である。来る者はすでに紹介したが、去る者は当時の人気バンド、アソシエーション、サイモン&ガーファンケル、バーズといったアーティストである才能がないとは云わないが時代に合うというのはなかなか難しい。

2010/08/04

goldfinger 2

ゴールドフィンガーといえばこの写真である。全身に金粉を塗られて皮膚呼吸が出来なくなって死んでしまったシャーリー・イートンである。僕はこの間まで前回のポスターの写真はシャーリー・イートンだと思っていた。ところがどっこい。タイトルロールとポスターはマーガレット・ノーランでありました。40年ぶりの新発見。思いこみと事実の誤認はとんでもないことを起こすという再認識に至りました。

2010/08/02

goldfinger

ゴールドフィンガーは1965年に日本で封切られた。3作目である。この主題歌はアメリカでヒットしてシャーリー・バッシーはイギリスの歌手からアメリカでも売れる歌手になった。この時期、イギリスは若者文化の輸出国になった。まあ偶然なんでしょうが、相乗効果が現れたのかもしれない。ビートルズ(その後のフォロワーズ)、007、ミニスカート(マリークワントとトゥッギー)・・・ショーン・コネリーはハリウッドでも重鎮的な感じになってしまった。やはり007はショー・ンコネリーですなあ。