2015/06/30

雑感

写真とは全く関係ない話で、いま世の中は百田発言でマスコミをにぎわせている。
個人的にはかなり歳とともに右寄りになってきたが、百田という作家には僕は完全に拒絶反応で実にくだらない人物だと思っている。同時に正反対の辻元とかいう議員も同様に下らない人物と思っている。
こういう両極の極論を展開する日本ってほんまに大丈夫なのかなって思ってしまう。
振り返ってみれば両極の馬鹿とアホのパターンっていつも同じなんですね。
もっと違う切り口で論理展開できないのかといつも思います。
いつも思いますが太平洋戦争って完全に作戦の失敗でいったい何人が死んだと思ってるのかな?そういう統計的な認識をしている人がちゃんといるのかな??
もっとクールに考えるべき時代かなと戦争も一つの方策であって「玉砕」とかという概念は戦争の範疇のものでないと思うのですね。どこかで引かねばならなかった。
生きてこそ何ぼの感覚が必要だと思います。特攻隊なんて発想自体が間違ってます。
まあ最近ですわ・・そこまで達観してきたのは。

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写真は「NEMS」??
ブライアン・エプスタインのやっていたレコード店でここに売れない時期のビートルズの面々がレコードを見にやってきていた。

2015/06/29

TWIST



ツイストというダンス?が日本で流行った頃の記憶はあんまり鮮明でない。小学生の4年くらいかなと思う。ただ「藤木孝」という歌手がものすごく人気があったということだけ結構記憶に残っている。
そこそこ詳しくなって資料(まあ雑誌ですが)がたまってきて、昔のデータも見れるようになってから当時の状況に思いを巡らせても、ご本家のチャビー・チェッカーが日本で売れたという話も聞かないしヒットチャートの記録がない(9500万人のポピュラーリクエストっていつから始まったのだろう?)のでよくわからない。
チャビー・チェッカーのザ・ツイスト(ツイストNo.1)が全米1位になったのが1960年の4月ということで、アップした藤木孝のレコードも1960年の春頃に出たのでしょうね。
脱線しますが、このザ・ツイスト(ツイストNo.1)という曲はアメリカで同じレコードが2度も1位になっているという非常に珍しい曲でビートルズにも今のところない。
懐メロになって再ブレイクというのでなく、1960年の9月と1962年の1月に1位になっている。間が1年半くらいしか経っていない。
アップしたのは大瀧詠一の「レッツ音頭アゲイン」の元歌の「レッツ・ツイスト・アゲイン」の方です。
以前にも書きましたがこの藤木孝さん、ぴたっと歌手やめて俳優さんになってるんですね。
中学から高校のころあの時の藤木孝という歌手はどうなったんだろうっていつも思ってました。日本のテレビドラマって見なかったから・・・。







2015/06/28

SYLVIE VARTAN


シルヴィ・ヴァルタンは1964年に「アイドルを探せ」という映画で日本では彗星のように現れて、以降今までずぅ~っと第一線で活躍している今や大物歌手です。
今までに何回も書いているけれど、ビートルズの「抱きしめたい」という曲がアメリカでNo.1になった時の電報はフランスで公演中だったパリに届き、その時の共演がシルヴィ・ヴァルタンだったという因縁もある。
そのシルヴィ・ヴァルタンという歌手は、1964年の時点でフランスではそこそこの売れっ子で、位置づけにおいては、どうも僕が今まで書いてきたアメリカンポップスの翻訳版のフランス語版歌手みたいな気がしている。
まあフランスの森山加代子であり、フランスの弘田三枝子、伊東ゆかりだったのではないかと思っている。
アップしたのは、ロコモーション、悲しき雨音・・・一番上はフランス語が分からないので??
シルヴィ・ヴァルタンのものも味があります。
その彼女も段々とオリジナルに変化していきます。





2015/06/27

悲しき雨音


聞けば「どっかで聞いたことがある」とほとんどの人が思うほどの超大ヒット曲でオリジナルは「カスケーズ」というグループ。
パラキンの方は裏(B面)に持ってくるという失礼な?選択。
あの時期はいいですよね。海の向こうの大ヒット曲をA面、B面に配置できるのですから、
今から考えたら優雅な「禁じ手」の時代、パラキンのLPレコードに収められている曲なんかもうアメリカのトップ10に入っていたようなものばかりですから。いい時期だったと思います。

個人的には、シルヴィ・ヴァルタンのフランス語の「悲しき雨音」しかもアコーステックバージョンが気に入ってます。




2015/06/26

雑感

世の中株主総会の季節で、僕の周りでも関係者が結構忙しくしている。「無事終わりました」というメールをいただくのがほとんどです。
僕の親しくしている会社でも明日総会で役員が入れ替わる。そこは実に長い間会社を支えていた役員さんが不本意ながら辞任されます。あの人がいなくなったらどうなるんだ??と思いながらもまた新しい役員さんが頑張って支えて企業というのは進んでいくもんだと思うことが多い。
オーナー社長は自分一人で支えていると勘違いしている人が多い。アップした有名な木の幹は自分だと思っているオーナー社長が多いけれど、他の役員や会社を思う社員によって支えられていることが分かっている社長って何人いるのだろう??
つくづく会社って難しいと思う。社長以外が頑張れば頑張るほど社長が勘違いしていく。

2015/06/24

Music Life

ミュージックライフという雑誌があった(今もあるのかな?)。
僕が買いだしたのは1964年のビートルズ以降ですが、なんか調べていくとそれまでの路線の移り変わりが面白いです。
初めはジャズの雑誌みたいで、ここにアップした1961年のころには「ポピュラー音楽の専門誌」と銘打っている。ポピュラー音楽っていう言葉は何時ぐらいから使われだしたのだろう??
もう古本屋に行ってもないでしょうね。

2015/06/23

CANDY MOORE


これはかなり古いというかオールディーズではないのですが、1963-64年くらいの話です。「ルーシーショウ」という番組が何時からやっていたのかは知らないのですね。気がついたらやっていた。僕の記憶では64年にはしっかり見ていた記憶があります。
下の方がルーシーの家族とヴィヴィアン一家??(もう覚えてないです)
左の後ろが長女のクリス役のキャンディ・ムーアでアメリカでは今でもファンがいるという話です。
いかにもアメリカの女の子っぽく憧れましたね。
ルーシーショウはもうドタバタで特に銀行のムーニーさんとの絡みは最高でした。

2015/06/22

悲しき街角

オリジナルも大ヒット、翻訳ポップスも大ヒットっていうパターンがあるのかどうか?
当時は小さすぎてわからないけれど、この「悲しき街角」はデル・シャノンのオリジナルも、飯田久彦のものも結構聞いたような記憶がある。
デル・シャノンのシングル盤はかなりの回数でプレスされていてその都度ジャケットが変わっていてかなりの種類がある。残念ながら初版のシングルの記憶がないのですが、これかな??でも値段が350円って見えるのですが??当時は330円の次は370円だったような・・・古い話でもう記憶があやふやです。
オリジナルは1961年の春の全米No.1ヒットで、なぜか邦題が「悲しき街角」でこの後デル・シャノンのものはたいてい街角がつけられるようになった(かなりいい加減)。
1965年にはイギリス勢に交じって「太陽をさがせ」という曲がかなりヒットして、この辺までは健在ぶりをみせてましたがそのあとは低迷・・、僕はそのあと1990年の自殺の記事までほとんど忘れていた。朝日新聞には訃報の記事が出たのを覚えている。
ビートルズの「フロム・ミー・トウ・ユー」を歌ったり、ビートルズの弟分だったピーター&ゴードンが歌ってヒットした「アイ・ゴー・トゥ・ピーセス」はデルシャノンの作品で、その頃は結構話題に上っていて頑張っていた記憶がありましたが・・・。
飯田久彦のほうは、ピンク・レディで名前が復活して、レコード会社の社長さんにまで上り詰めてこっちはハッピーという感じですね。こうやって眺めたら悲喜交々の人生です。
Wikiで調べたら、1985年に日本にやってきてオールディーズを歌う番組に出ていたけれど、日本航空の事故で放映が中断されてそのまま終わってしまったということが書かれてある。その飛行機に乗っていたのが坂本九さんで何とも変な因縁(全米No.1ヒット)を感じてしまった。










2015/06/21

SUKIYAKI


坂本九の「上を向いて歩こう」という曲がアメリカで1位になったという話を聞いたのが中学1年の時だった、ビートルズのアメリカ上陸の1年前です。この年は結構面白く、ペギーマーチやポールとポーラとか日本でも有名になる人が結構おります。
イギリスの「トーネドーズ」の「テルスター」で幕を開けた1963年は坂本九の日本、以前にも書いたスール・スーリールのフランス(ベルギー)というようにすでに国際的な顔ぶれだった。
こうして振り返るとアメリカのヒットパレードで1位になるというのがいかに難しいか実感します。
戦後70年、坂本九さんしかおりません。
 
 
 
 
 
 

2015/06/20

デイヴ・ディー・グループ

「キサナドゥーの伝説」というヒット曲がある。そこそこの大ヒットです。歌っていたのはデイヴ・ディー・グループと言います。
ところが本当はアップしたような「デイヴ・ディー、ドジー、ビッキー、ミック&ティック」というのが本当のグループ名で日本では「こんな長いのは無理でんな」ということで割愛されたのでしょう。
まあどっちもどっちかなと。
翻訳ポップスはちと休憩。

2015/06/19

出世3部作



森山加代子はこの3曲で一躍トップスターに躍り出た。パラキンみたいに元歌がアメリカンポップスでなかった。そのあたりがちょっと異色に感じられたのかもしれない。一番上の曲はイタリアのカンツォーネかな?メロンの気持ちは、意外とローズマリー・クルーニー(ジョージ・クルーニーのおばさん)のヒット曲ですがどちらかといえばJAZZではなくペレスプラード系(マンボなのかな?)です。一番下はキューバのヒット曲です。キューバ問題が巻き起こる前の話でしょうね。
「チンタレラリルンナ・・青いお月様・・・」出だしから衝撃だった。
やたら「チン・チン・チン・・・」って言うし・・・・まあ初めからややこしかったんですわ。

2015/06/18

意味不明3部作



この辺から独壇場になって、もうある意味カリスマだったように思います。

恋の汽車ポッポ


今では大瀧詠一の作品だと思う人が多いと思うけれど、同名?異曲、アイデアの元はこれですね。
アルマ・コーガンの「ポケット・トランジスタ」に並ぶ大ヒット曲、これを日本で歌っていたのは「森山加代子」、ひょっとしたら森山加代子が一番翻訳ポップスでは売れたというか目立ったような気がする。
「恋の汽車ポッポ」はB面で表はオリジナルの「じんじろげ」という曲でなんか海の向こうからやってきたように思わせた摩訶不思議な曲です。呪文のような歌(覚えたもんです)。このあたりから変な曲連発(ズビズビズー???とか)。僕のおじいちゃんが「もう全くわからん、なんやこれ・・・歌か??」と言ってましたから。恋の汽車ポッポも「キスしてキスして・・」連呼やし、当時の古いお方々に衝撃を与えた歌手だったような気がしてます。



2015/06/17

Concrete and Clay


パラキンの1965年あたりのシングル盤はA面が「コンクリート&クレイ」でB面が「リーリン&ロッキン」だった。「コンクリート&クレイ」は「ユニット4+2」というイギリスのバンドでいわゆる当時ではリバプールサウンドの仲間、B面の「リーリン&ロッキン」は御大デーブクラーク5のヒット曲、この頃になるとオリジナルがパラキンと同時かまたはそれより早く出るようになって、もう目新しい感じは全くなくなって、多分ほとんど売れていないと思う。
こんなシングルを出していたことも知らなかったけれど、これを見るとこの時期で完全に翻訳ポップスは幕を閉じたのではないかなと思われます。
蛇足ながら、選曲も結構いい加減であるいみ無節操です。A面はどちらかといえばカリプソ風でB面は完全なR&Bで、もともとハワイアンバンドからスタートして途中から路線変更で当たり、もう何でも翻訳して歌ってしまおう・・・という割り切りだったのかも知れないですね。







2015/06/16

CHERISH

                                                                                 
 
これも当時のポップスファンなら誰もが知っているアソシエイションの全米N0.1ヒットのチェリッシュが「黒ゆりの詩」となってこれまたオリジナルとして出ている。
こういう状況を見てみると、特許のパクリの訴訟もなかなか難しいけれど、何を持って模倣というのかわからなくなってくる。
ただ、こんなことは「かまやつひろし」であるが故の世界かなと変な納得感があるのもあの人の人徳なのかもしれない。「かまやつさんならまあええか」という感じですね。ただこの洒落がアメリカにも通用するのかどうか、今の世では無理かもです。
 
 


2015/06/15

パサディナのおばあちゃん


 
ジャン&ディーンといえば日本では「パサディナのおばあちゃん」の方が有名かもしれない。
この時期(1964)になると(ちょっとしか時間はたっていないけど)そのままの翻訳ものは出てこなくなった。その代りと言ったら変ですが、ちょっと変わったものが出てます。スパイダーズの「エレクトリックおばあちゃん」といってメンバーだったかまやつひろしの作品になってます。
僕にはどう聞いても「盗作」だと思いますがもめたという話も聞かなかったですね。
関係ないですが、日本盤のB面の「アナハイム・アズサ・アンド・クカモンガ」って一体どんな意味だろうってその頃ずっと思っていた。アナハイムは場所ですよね・・・・。クカモンガって???モモンガー???


2015/06/14

Ornette Coleman

今日はオールディズから一転JAZZへ、オーネット・コールマンが亡くなった。
正直僕にはまだついていけない境地ですが、アップしたこの1枚だけ持ってます。
ジャケットが好きで結構よく眺めます。ストックホルムでのライブですが、白い雪の上に黒人というコントラストが「いいなあ」といつも思いながら難解なフリージャズに挑戦してます。
合掌・・・

2015/06/12

SURF CITY


同じ色のジャケットのなってますが、パラキンの方はB面です。「悲しきカンガルー」をA面に持ってきたのはこっちが売れると思ったからでしょうね。個人的には絶対サーフシティですけどね。ジャンとディーンの全米No.1のヒットなんですけど。1963年の7月です。坂本九のスキヤキが6月でそのあとのヒット曲です。

2015/06/11

DOMINIQUE 2

こんな感じですね。
ザ・ピーナッツの方は放送禁止用語がつかわれているので今では放送できないらしい。盲(めくら)という言葉がダメみたいです。じゃあどう言えば???
過剰な言葉狩りもどうかと思ってるんですけどね。




WASHINGTON SQUARE


元の音源がインストゥルメンタルなものに勝手に歌詞をつけてヒットさせるなんてことが許されるのかどうかよくわかりませんが、日本ではヒットしました。
ワシントンってワシントンにあると思ってました。普通はそう思いますよね。当時中学1年生ですから。
個人的には1964年の初頭、ビートルズの爆発以前に僕はアメリカのポップスにかなり興味が湧き出していたような気がします。
ヴィレッジ・ストンパーズって一体どんなバンドだったのだろう??
それとオリジナルの方のB面「、トルコのDELIGHT(喜び)」ってなってますが邦題は「ウィーンの夜はふけて」もうやり放題・・。A面も別に夜は更けてないですもんね。


2015/06/10

DOMINIQUE


ドミニクという歌が1963年の暮れから1964年にかけて大流行した。「スール・スーリール」という女性が歌っていたもので本職は修道女さん(職業といっていいのかわかりませんが)です。シンギング・ナンとも呼ばれていて、まあ歌う修道女ということでしょうか?当時の僕は同じ歌を歌う歌手が2人いると思っていた。
このスール・スーリールさんその後なかなか辛い?人生を歩まれて1980年代に自殺されてます。
デビー・レイノルズ主演で映画化もされましたが、本人は気に入らず欺瞞だと切り捨て、さらには自分の信ずる宗教にも疑問を持ち・・・純粋なお方はしんどいです。
下の写真はご本人かどうか僕にはわかりません(映画にもなっているので映画のシーンかも)。当時歌を聴くだけで歌う姿は見たことがなかったのです。
今回ここにアップする写真を捜して、こんなお方だったのかと初めて知った次第です。
日本人はペギー葉山、ザ・ピーナッツ、〇〇合唱団がカバーしてましたが誰でも歌っていい歌なのかどうか?

もっと調べていくとこの歌の訳詩には結構いろいろと疑惑というか面白いことがあって(少なくともオリジナルの意味とは違う)、僕が小学生の時に聞いた歌は日本の子供向けのオリジナルとは全く世界の違う歌だったようなことが書かれてあるサイトがあります。オリジナルは聖ドミンゴ(僕は全くわからない)のお話だということでまあ宗教的な歌であった。、ザピーナッツ、ペギー葉山、さらに忘れたけれど合唱団・・・全部歌詞が違っているらしい・・・。

ヒット曲1曲でいろいろと勉強できて楽しい???といえるのかどうか。
歌っていた本人はしんどかったのかも。
ただヒットチャートを見ていると時々こういうことが起きるから。まことに不謹慎でありますが面白いということになります。
1963年は坂本九(日本語)とこのスール・スーリール(フランス語?)が英語以外の歌のナンバーワンだった。
1963年も結構面白いんですよね。




2015/06/09

Mr. Base Man


どうも翻訳ポップスというカテゴリーがあるとしたら、このダニー飯田とパラダイス・キングというバンドが一番活躍したのではないかと思い出してきた。実にたくさんのカバーもんを出している。
もともとハワイアンバンドで、途中からアメリカンポップスのカバーもんに路線変更してどちらかといえば大いに稼いだバンドだと言えます。
リードボーカルがドンドン代わっていったけれど、水原弘、坂本九、九重佑三子と皆さん大成されている。あっそうそうおばけのQ太郎の石川進もその一人。

2015/06/08

SHERRY



フォーシーズンズというグループは、ビートルズがアメリカに上陸するまでのトップスターの1つだったみたいで、多分ビーチボーイズと後誰が該当するだろう??1963年のヒットチャートを見てもレスリー・ゴーア、ペギー・マーチ、坂本九、ボビー・ヴィントン・・・勢力を感じるグループという意味(さらに1964年以降もヒットをとばしたという意味でも)ではやっぱり2つかな。
そのフォーシーズンズの代表的な大ヒット、日本でも受けた。この時期はパラダイスキングのものが売れた?(かどうかは僕は知らないです)。ただ僕は当時小学生でフォーシーズンズのことは知らなかったし、シェリーといえばパラキンの女性ボーカルだった九重佑三子のオリジナルだとばかり思っていた。海の向こうの曲をちょっと日本語を混ぜて歌えばヒットするという古き良き時代?だったのかもしれないですね。

2015/06/07

PLEASE PLEASE ME


 
翻訳もののヒットが何時くらいまであったのか気になったのでネットで見ていたら、ビートルズの初期まではあったことがわかる。
上にアップしたのがクール・キャッツの「プリーズ・プリーズ・ミー」です。レコードを出している。ただこの時期になるとオリジナルの発売も早くなって、タイムラグで翻訳もんがヒットするチャンスは極端に減っていく。
クール・キャッツは記憶にあって、ただもう時代が遅かったですね。
もう日本語のコピーバンドはいらないという時代に入りつつあった。
クールキャッツのジャケットはビートルズの同じポーズなんで既にあやかろうスタイルですね。
一人多いから右向きのポーズを加えた。ただもうなんというか意味がなかったと思う。本物しか価値がない時代になってきていた。可哀そうやけどクールキャッツなんか消えるしかなかったと思う。
もう絶対に日本でオリジナルが発売されないようなレアもんを探すしかないのかな??という感じかな。

2015/06/06

ビキニスタイルのお嬢さん



3枚ともよく似たジャケットで、ご存じブライアン・ハイランドの不朽の名作「ビキニスタイルのお嬢さん」です。日本ではパラキンのが一番ヒットしたと思う。
そうですわ。オリジナルよりヒットしたんですよね当時は。
僕はこの歌で水玉という単語を覚えた。ポルカドットビキニ(水玉模様のビキニ)です。
ただ、水玉模様のビキニなんですが、イラストも水玉模様になっているのがブライアンハイランドだけのような気がします。
このあたりのこだわりがほしいですよねえ。
まあ当時はビキニスタイルだけでフラフラだったのかも知れないですが。