2017/10/29

最後の忠臣蔵


今日も朝から台風の雨で実家の片付けにいくのも無理なので、だらだらと忠臣蔵のことについてネットで検索していたら「最後の忠臣蔵」という映画がよさそうで、アマゾンビデオで200円くらいだったので見てみる。
見終わって、こういう切り口もあるのかと、原作者の構想力に感心して、役所広司と佐藤浩市の相変わらずの時代劇の上手さにこれまた感心する。
昨日から立て続けに映画を見て、さらに詳しいネットの書き込みを読んだからにわかに忠臣蔵に詳しくなってしまった。
赤穂の藩士は当初300余名いて、お家明け渡しの時に大石内蔵助に命を預けると約束した人が当初120名くらいいて、段々討ち入りまでの1年9か月の間に50人くらいになった。
で、いよいよ討ち入りしまっせと決まってからも減り、最終的に47人に。
で、この映画の主人公は絶対に脱退しない人物のはずがギリギリに逐電した「瀬尾孫左衛門」、それと討ち入りには参加したが泉岳寺に着いたらいなかった(切腹を免れた)「寺坂吉右衛門」の2人です。
2人とも大石内蔵助に個人的に頼まれた任務を持って生きてます。
どういう任務か??寺坂吉右衛門のほうはまあ秘密にする必要もないのでかなり楽な感じ(討ち入りした遺族に16年かけて会って最後の話をして、大石から預かった金子を渡して回った)やることは大変ですが。
役所広司扮する瀬尾孫左衛門の方が複雑でこれは絶対に他言できない・・・・。
興味のある方は是非見てください。もう大抵の方は見てるんかもしれないですが。2010年の作品なんで。
安田成美扮する元島原の花魁のおゆうさんも味があって実によかったです。若い時より今の方が艶があっていい感じ。





2017/10/28

忠臣蔵

また台風が来るということで雨で鬱陶しい。さらに足の調子が良くなく自宅でじっとしているはめに。
暇だから、僕の見た忠臣蔵ってどれだったのだろうと探したらすぐ見つかりました。1958年の大映の超大作、当時のスターのオンパレード、多分これを見たんだろうなあ・・・と思ってアマゾンのビデオを見たらありました(しかもプレミアム会員はタダ)。即見てしまいました。切腹したのは市川雷蔵だった(後の眠狂四郎)。若尾文子なんてもうものすごく若い。鶴田浩二との話はこれは作り話だって僕でも分かりましたが・・。
見ていたらなんか赤穂藩の味方する目付役がいて、調べてみたら黒川弥太郎扮する「多門伝八郎」という人物で、それをまた調べてみたら「気ままに江戸」というサイトがあって、もうびっくりすることばかりでした。忠臣蔵ばかり3時間くらい読んでしまった。恐ろしいサイトで、他に幕末とか深入りしそうなコーナーがいっぱいあります。どんな人が作っているのだろう???
その「多門伝八郎」という人物は、当時の思い出を残していて、その真偽のほどがよく話題になるみたい。その後の赤穂浪士の評価が高いのを受けて脚色したのではないかとか??
考えたら300年前の話ですから書かれたものが残っているんですな。
よく考えたら全部正しいとは限らないわけですか。
でも映画受けする立ち位置でした。
映画見てて、昔、母親に萱野三平の生家に連れて行ってくれと言われたことを思い出した。(昔、近所に住んでいたので)。

2017/10/27

赤穂浪士

この間から久しぶりに東京に行くことが増えて、最近は東京で降りず、品川で降りることが増えた。恵比寿に行くのも品川からの方が早いし・・・。
で、先日、足が痛かったので恵比寿からタクシーに乗って品川まで約2000円、途中で地下鉄の「泉岳寺」という看板が目に入った。
僕は昔、なぜか泉岳寺に来て、赤穂浪士のお墓を見た記憶があって、先日来の実家のアルバムを整理していたら、昭和33年に東京見物におばあちゃんと来ているみたい。その時に泉岳寺に来ているんですよ。
なんかお墓ばっかりだった記憶がある(小学2年生)、その頃に映画の忠臣蔵もおばあちゃんとおじいちゃんに連れられて見に行っている(初めから切腹シーンやめてほしい)。どっちが先だったのか分からない。
ネット社会で調べてみたら、47人誰も死んでいない。奇跡に近いように思える。どう考えても相手はほぼ全滅のはずですよね。
今になって調べてみたら当時の政治事情も詳しく書かれていて、単なる「仇討ち」とは言えない面白さも感じるけれど、やっぱり、単純に面白い側面(やられたらやり返す・・こういうことが起こらないと世の中さみしい気がする)は否めないです。
でも、冷静に考えたら、こんなこと極秘裏によう出来たなあと思うことしきり。

2017/10/19

家の整理

先日から親父(両親)の住んでいた家を売却するので、家にあったものの整理に出かけている。親父のものより僕のものが多く。実に複雑な悩みがあって毎日苦しんでいる。
今になって気が付いたけど、僕の趣味って、物を貯めることだったんですね。お金だけは貯まらんかったですが。よう捨てないというか、シリーズになっているものは全部揃えたい・・。
だからゴルゴ13とかこち亀とかもほとんどあるのですが、これも処分するんか???
全部、今の僕の住んでいる家には入らないのは分かっているので、毎日取捨選択の悩みに。
音楽雑誌もめっちゃある。ビートルズの現役時代のものは残す。ミュージックマガジンも、ニュー・ミュージック・マガジンとう名前のものだけ残す。音楽専科は要らない・・・・とまあ、毎日悩む悩む、寝れない。うなされているみたいです。
ただ、どこかで決めないとぼくが死んだらすべて捨てられるのは分かっているので、今からの僕の余生で何を読みたいのか??を考えて決めようと思っている。
ほんで今日は仏壇を処分した。僕は全部持って帰って欲しかったんですが、これはおいときなはれとかいわれて、半強制的になんかわからんものを持たされた。漢字だらけのお経の写本みたいなもの・・・こういうのも困りますな。いらんねんけども。
お宅の仏壇は、お西さんとお東さんが混ざってますな?といわれても全く門外漢なんでわからん。だいたい僕の親父も無宗教っぽい人物だったんでこだわりはないはず。「はあ~そうでっか」と言いながら手際よく仏壇を持って帰ってくれました。第一関門突破。
その業者さんの話、うちはもともと仏壇を売るのが商売で、買い替えの時に古いのを持って帰ってお祈りして処分しとりましたんや・・。ところが最近は処分の仕事ばかり来ますねん。(そうやと思う、仏壇みたいなそこそこ広さとるもんどこにおけるんや???)
もうクラウドみたいな発想で、先祖を思う気持ちを雲の上にあげればいいのでは??と思っている。



2017/10/13

お風呂の話

アップしたのが相応しいかどうかは疑問ですが、尊敬?する山上先生の名?迷作の表紙から。
まあこれを読んでいた俺も俺なんで・・・恥ずかしいわ。

では、長屋話の続きです(読者がいたので)
20軒の長屋は、当初というかつぶされるまで「お風呂」が自宅になかった。
工場に備え付けられていた「お風呂」があった。
そのお風呂は長屋専用で、工場の工員さんには別の大きなお風呂があった。
男の人は工場のお風呂でも、長屋用の男用のお風呂でも自由に使えた(一日に2回入ってもOK)。女の人は長屋用の女風呂でということに。
で、僕はと言えば生まれてからかなりの間、「長屋用の女風呂」に通っていたはず。(当時のこと覚えてるかいな)
多分小学3年までいたから、ずっと女風呂やったんか定かでない。
工場のお風呂には行った記憶はある。もうめっちゃ広く、プールみたいで、早くいけば泳げていた。ただそれはお父さんやおじいちゃんがいた時の話で、いないときはお母ちゃんと一緒だったんだろうと思う。
今から考えたら、思春期に入ったお姉ちゃんもいっぱいいたわけで、お姉ちゃん方はどうしたんだろう。胸も大きくなるし、下の方も気になるし・・・今度おばあちゃんになっているその頃のお姉さんがいるから聞いてみるわ(しばかれそう)

ただ裸の付き合いっていう言葉がありますが、そういうことだったのかなって思うことが多いです。みんな素っ裸の付き合いだったわけです。
僕はおばちゃんたちに生まれた時からずっと裸の姿を見られていたわけで、そりゃあノーブラのシミーズ姿でも「元気か・・?」って聞きに来ますわな。
逆に考えたら、僕は素っ裸のおばちゃんからお姉ちゃんまでモザイクなしで(当たり前でんがな)見ていたわけで、実にもったいないことをしていることになる。残念ながら全く記憶にございません。
ほんまに古き良き時代だったように思うこの頃です。




2017/10/10

正義の味方

あんまり政治には興味がある方ではないけれどこうもめたら気になる。
誰が正義の味方なんだ??
空手チョップでばっさばっさと退治してくれないかな。誰を??
ほんまに今回の選挙は分からない。
結局、主義主張が明確なのは右の阿部さんと左の枝野さん。まあ共産党も一応はっきりしてます。
あとはよくわからん。
特に小池さんはもう全く僕の頭では理解不能。
まず東京都をちゃんとやりましょうよ。オリンピック大丈夫なんかな。

力道山にやっつけられているのは誰だろう。
昔金曜日の8時からのテレビ中継で、リングを三菱の掃除機で掃除するところを見せるのですが、あれって意味があったのかな。汗でボトボトのはず。

2017/10/09

シミーズ(あほな思い出)

前回の続き
長屋の20軒は、皆さん仲が良くって、茨木に引っ越してからも、大勢の方が何べんも遊びに来てくれた。仲が良かったのは、戦後から昭和34年までほぼ一緒に苦楽を共にしてきたからだと思う。
あの国鉄の自動車工場の宿舎(20軒の長屋)が何時からあったのか、今となっては知る由もないですが、戦後、復興の為に工場が出来、人が集まってきて宿舎が建てられ、その宿舎は、東京オリンピックで新幹線が作られるということで、なくなることに、また国鉄の路線の充実とともにバスの需要も減ってきた云々で、宿舎と共に自動車工場も解体されて、その跡地は前回述べたようにワコールの本社とあとマンションになっている。
で、その長屋の方々が遊びに来てくれるのはええのですが、まあ女の人ばかり来る。そりゃそうですわ。男は働いてるわけで、当時の主婦はほとんど仕事はしてなかった。そんで夏なんかに来ると
当時はクーラーなんかないから、扇風機やうちわで涼をとるわけやけど、そんなんで間に合わんから服を脱いでしまって、当時はシミーズという下着で家の中にいる。もうシミーズのおばちゃんがいっぱいいる。実にややこしい風景が繰り広げられる。
誤解されたら困るので付け加えますと、うちの家族はムームーみたいな薄着の服を着ていまして、もちろん下着姿ではおまへん。
お客さんは一応ちょっとよそ行きの服をお召しされて御来客いただいた感じです。だから暑い。
さらに当時、ブラジャーをしている人はまあモダンなお人で、ほとんどノーブラ、そんなおばちゃん達が小学校の高学年の僕に話しかけてくる。左右の乳首が揺れる。さらにさらに脇の毛はボウボウの時代です。
僕の勉強部屋にも勝手に入ってくる。そりゃそうですわ、僕を赤ちゃんの時から知っている人ばかりなんで遠慮が全くない。
さらに夏休みになると同年代の子供も遊びに来るわけで、その子供も女の子はシミーズ1枚で僕の周りをうろつく・・・。今から考えたら僕の当時のアルバムには近所の女の子が下着姿のまま写っている写真っていっぱいあるもんね。パンツとシミーズで外に出てた時代ですわ。
古き良き?時代の思い出です。

昭和34年

この写真は当時の大阪駅のはず。
僕の親父は昭和36年くらいにはこの駅の2階に勤務していたから。
昭和34年に京都の国鉄の自動車工場の長屋(20軒の長屋)から引っ越してきた。どこに?
大阪の北摂の茨木というところに。
住んでいた京都の長屋は今ワコールの本社になっている。
大阪に引っ越すというので、小学生の頭の中では都会に引っ越すと思っていたら、えらい田舎だった。新築の家を建てたものの、周りは田んぼだらけで、カエルやザリガニが入ってくるし、目の前の田んぼでは田植えの時には牛がいるし、正直、京都の方が良かったと思った。
ただ、親にしたら、当時の京都の長屋は、6畳、4畳半、3畳の部屋に6人が住んでいて、どういう訳か母親の方の田舎(鹿児島)から宿代わりに客がよく来た。特に受験の頃には親戚縁者の伝手で学生が受験に来た。毎年3月くらいになると、見知らぬ受験生が来た記憶がある。到底泊まる場所が狭すぎてないから、その辺りは当時の人情時代で、隣のおばちゃん(他人でっせ)の家に泊めてもらったりしていたらしい。
茨木に引っ越した時に、おじいちゃんの退職金があったということで、生活に大きな変化が起こった。まず机を買ってもらった。勉強部屋が与えられた。電球からすべて蛍光灯になったような気もする。
また、電気冷蔵庫を買った(それまでは氷を上に入れる冷蔵庫だった。冷蔵庫と言えるかどうか、今となっては疑問ですが)。ただ当時の電気冷蔵庫はアイスクリームは保存できなかった。フリーザーの機能が付くのはもっと先の話である。
縁側に椅子とテーブルを買った。電気の炊飯器も買った。
もう、宝くじが当たったみたいな生活の変化だった。
今から考えたら、その20軒の長屋住まいの面々は同じように定年退職で退職金を手にして、家を建て文化的な生活を営むようになった。日本が高度成長で、健康で文化的な生活を実感できた古き良き時代の始まりの頃の話です。

2017/10/08

JR茨木の八海さん

 
この上の写真でわかるか不安ですが、車が走っている向かい側の商店街の一番手前、白のシャッターが下りているところ。下の写真も参考までに。
そこが昔「中華料理 八海」さんがあったところで僕の贔屓にしていたお店です。
並んでいる商店街も10年以上続いているところは珍しく、なかなか商売も難しいように思います。
「八海」さんというのは元々茨木の阪急の方の「大映」(懐かしい)の映画館の前で中華料理店をやっていて、そこから春日3丁目に引っ越して来られてます。その時は、昔からの常連さんや、お持ち帰りのお客で結構な賑わいでした。
その3丁目のお店が立ち退きで(建て替えのため)、今の1丁目に引っ越してきたという話です。
非常に物静かなマスターでほとんど無駄口をきかない人でしたが、時々「今日は遅いね」とか言ってくるので、この人ちゃんと人を見てるんやと思ったことがあります。
で、僕は年に1~2回くらい実家に物を取りに来た時に立ち寄っていたのですが、昨年寄ったときは「臨時休業」で、昨日は看板もなくなっていたので不安に感じて、その「八海」さんをよく知っている人に聞いたところ、今年の初めに亡くなったということでした。まだ70越えたぐらいで、今なら早いですな。
ネットの評価はあんまりたいしたことがないのですが、多分お若いお方の味覚の書き込みなんで、中年の僕の評価は絶大で「餃子」「唐揚げ(手羽先)」「肉炒め」は絶品でした。
またラーメンも実にシンプルで安く、ある意味これで十分やん。と思わせる主張感が感じられました。定食とかはまったくなく。客に迎合しない孤高の中華屋さんでした。残念です。
合掌

家の整理 (SUPERTRAMP)

父親が亡くなってほぼ17年経つ家を処分することになった。
まあそれはそれで一歩前進なんですが、困ったことが起こる(もう想定内の話ですが)。
物置代わりに使っていた倉庫がなくなるわけで、ため込んだレコードと本を今の自宅に持ってくる(全部は到底無理)か処分する以外に方法はない。選別が難しい。
まず初日、どんなレコードを置きっぱなしにしてあるのか何気なしに手に取ったのが「これ」・・
これだけでしばし時間が過ぎるというか「時間が止まる」。スーパートランプの「ブレックファスト・イン・アメリカ」あったあっためっちゃ懐かしい。アメリカで大ヒット。
レコード1枚ごとにこんな感傷に浸っとったらなんも進まん・・・。
CDと違ってさすがにレコードは大きい、ジャケットが見栄えする。レコード文化万歳。
ツインタワーが描かれている(よく見たらニューヨークらしき風景がコーヒーカップとかいわゆるコーヒーショップにある小物で作られている。凝ってますよ)。時代を感じる。
難儀な作業が始まります。11月いっぱいが期限。12月には僕の手から離れてしまう。
親父が建てて58年、さすがにガタが来てます。
どうでもいいことですが(どうでもいいことにこだわるからくだらんものばかり貯まる)、スーパートランプのこのレコードがヒットした時(初の全米1位)、なぜかジャケットのこのおばさんが来日した。
不思議なことだった。こういうのは初めてだったように思う。本人たちは来たのかな(もう忘れましたが)。このおばさんの方を覚えてるって???まあ人生楽しいです。
リピーおばさんね。でもこのおばさん本職は女優さんだったはず。
でもこのジャケットで後世に名前が残るような気がする。

2017/10/03

PRELUDE

たまたま偶然見かけたこの写真、きれいな後ろ姿の車だなと思った。
HONDAのプレリュード、何代目か忘れました。1983年には出ていた。僕が乗っていたから。この頃のHONDA車は好きだった。
フロントのワイパーが一本しかなく、これも斬新だった。ちょっと不安でしたが。

2017/10/02

LET IT BE

ビートルズのレットイットビーの映画の最後の場面がこれ。
何時撮られたのかは、もうすぐに出てこなくなった。昔は生き字引のように年月が出てきていたのに。歳をとるってつくづく嫌なもんですな。(調べました。1969年の1月の映像)
今日は久しぶりに車に結構長く乗って、ローリングストーンズを聞いていた。彼らのヒット曲を聞きながら、随分と長く活躍していた(今も一応現役!)んだと改めて思った。そういう意味ではビートルズは短い。1962年から69年まで、60年代という一言で終わり。
1970年に最後のレコードは出たけれど、実体は69年で終わっている。

2017/10/01

選挙の話

もう一回選挙の話

民進党のリベラル派が排除されるとゴタゴタ言ってますが、もともと排除されるべき集団でしょう。
排除というより、頭下げて仲間に入れてもらうような話でないと思うのですが。
民進党(もとの政党の名前も忘れました)自体がほんまにいい加減な集団だったことが今よくわかります。信じられないくらい意見の違う面々が一つの政党だったのですから(実態はバラバラでしたが)。
リベラルならリベラルらしく理路整然と支持者が少なくとも主張すべきです。
もっと潔く生きましょうよ。
なんか今の政治家さんの動きを見てると情けないです。数こそすべてになっている。

政権とってもあのような体たらくでは情けないでしょう。もっと主義主張を言いましょうよ。なんか情けないですわ。
共産党もある意味同じやと思ってます。

戦後の歴史でも今の民進党が一番情けない政党だったと思ってます。

アップしたのは今はなくなった千歳の美々駅です。
南千歳の看板にシールが貼られていて消されてました。こういうのって悲しいですな。