「007は殺しの番号」というけったいな名前の映画が公開されたのは僕が中学1年の時で、翌年の1964年に2作目の「007危機一発(ロシアより愛をこめて)」が大あたりして、しかもマットモンローの主題歌も大ヒットして、一挙に007(ジェームズ・ボンド)が世の中に認知されるようになってきた。そしてその翌年の1965年の春に3作目のゴールドフィンガーが封切されることになって、公開される前からあの金粉の裸の女性の姿に世の中は話題沸騰でえらい盛り上がりようだった。個人的にはここまで一回も007は見に行ったことはなく、よく考えてみたら中学1年や2年では見に行きにくかった。それでもアホな悪友と見に行きたいなあといつも言っていてその想いはつのるばかりだった。1965年の暮れに第4作「サンダーボール作戦」が公開されるということで、期末テストが終わった翌日アホども数人が梅田のもう場所は忘れたけど、ついに見に行った。今では考えられないような人出で満員で入れない。待って待って入れて立ち見。2回目で座れたかな??3回目では座れたように思う。要は3回同じ映画を見て帰ってきた。今では考えられない。しかもこの映画実に面白く、めっちゃ感動して帰ってきた。
バハマなんてどこにあるかも知らんかったし、青い海もきれいで、イギリスの戦闘機も格好良かった。主題歌は「何かいいことないか子猫ちゃん」のトム・ジョーンズでえらい大きな声だった。
今から考えたら、当時は坊主頭で制服着て学生帽かぶって007を見に行っているわけで、僕だけでなく他の同級生も同じ(まあ貧乏だったので学生服しか持ってなかったということかもしれないし、半分校則がそうだったような気もする)、いずれにしてもそのよう格好の男の子?が水着姿がいっぱい出てくるややこしいスパイ映画を感動して見ているのって結構教育上複雑な光景であったような気がする。
書きながら思い出したけど、その映画館は出るとき、通常の出口は人がいっぱいで身動きがとれず非常階段から出た、もうビルの横に外付けでついているむき出しの階段で怖かった。それもぞろぞろと大勢で降りるわけだから大丈夫かなって思った。その階段は今でも環状線から大阪駅に着くころに見える???後にも先にも非常階段から映画館を出たのはこのときだけである。
帰りに昔の旭屋書店(今の丸ビルの場所にあった)に寄って、エドガー・ライズ・バローズの「火星のプリンセス」を買って帰った。時は1965年12月20日前後の話です。この年は007の映画が3作目と4作目が公開されるという珍しい年で、別の意味ではこの年に007の伝説はスタートしたといえそうである。
今から思い出せばなんかいびつな感じの学生生活のようやけど、そこそこ楽しかったですな。
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