1969年という年は、高校を卒業して大学生になる予定がすべり止めまで見事にすべってはれて浪人生になった。すべるついでに予備校まですべった。正直予備校のテストまで一生懸命に解答する気力もなかった。いい予備校に行っていたからって履歴書に書いても(ふつう書かない)仕方がないしね。それで近所の無試験の予備校もどきみたいなところに行った。もどきというのは、もともと学習塾でそれがちょっと大きくなった感じのもので、ごった煮のような浪人生が集まっていた。それはそれで楽しかった。国立大学を受験したものから短大をすべった女の子までまあ一緒にやりましょうという感じで、一応まともな先生が来てくれてちゃんとやれば大丈夫そうだった。
いまから振り返ったら4月から7月くらいまで1日10時間以上机にかじりついていたので、なんかその辺で来年は大丈夫のような気になった。この大丈夫というのは卒業した時に理解できていなかったことがほとんど分かったからで、後は覚えることと試験の解答練習だけのような気がした。
この7月くらいまでレコードを1枚も買わなかったように思う。このことがいかに禁欲的な(人生で一番の禁欲生活だった)生活を送った証である。
1969年はビートルズのホワイト・アルバム発売で年をあけ、レット・イット・ビー、アビー・ロード、ビートルズ解散騒動・・・と実に大変な年?であったにもかかわらず、受験勉強のためこの年のビートルズのトレースは完全な実地体験とは言えない。一応雑誌は買っておいたので翌年に遡及して学習したものである。
レコードはあんまり買わなかったけれど、ラジオは適当に聞き流していた。4月ごろこの「時には母のない子のように」という実に不思議な気だるい曲が大ヒットしたカルメン・マキという女性が歌っていてルックスも神秘的だった。確か恋人がシナトラといったような??春は、この「時には母のない子のように」と「夜明けのスキャット」を聞きながら頑張った。
予備校もどきなんで毎日なかった。小学校から高校まで毎日規則正しく家を出ていたのが、まあスケジュールに合わせて昼から行ったりというのが楽しかった。
今から考えたら、小学校から高校の12年間の方がイレギュラーな生活だったと思うけれど、当時は昼から行ったら変な目で見られるのでは?とか実に小市民的な発想だったなと今になったら思う。
この「時には母のない子のように」はご覧のようにSONYからの発売で、そのころSONYがレコード産業に進出した。当時のSONYはいいレコードが多く、実に新鮮で脂がのっていた。昨日の松下電器ではないけれど、SONYも今大変である。生きのいい状態を維持するのは大変です。
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