藤圭子がブレイクした1970年とはどんな年だったのか?自分の体験しかわからないですが、まずこの大阪万博があった。当時茨木に住んでいたからJR茨木駅には快速が停まるようになり、もう人また人で大いに賑わった。ぼくは晴れて大学生になり内心やや不満ながらも表面上は第一志望校に受かった感じで春が来た。母方が田舎なものでその田舎からの万博訪問客の第1号は3月に来て(9月の終わりまでいったい何人のお客が泊りに来ただろうか?もう旅館みたいだった)、さっそく案内人として万博に行った。何回行ったか覚えていない。4月には、高校の悪友も全員晴れて大学生になり、現役で1年先に大学生になっていた友達が東京の方の大学に行き、旅行社の添乗員のバイトをしてどういうわけか万博に来た。それも4月。さっそくアホの連中がバイト姿を冷やかしに出かけた。もうこの時は僕は数回行っていたと思う。
添乗員なので背広を着ていた。こっちは無精ひげに長髪で異様な記念写真が残っている。
音楽はビートルズのアビーロード、ストーンズのレット・イット・ブリード、レッド・ツエッペリンの2枚目を毎日毎日繰り返し聞いていた。グランド・ファンクが出てくるのもこのころである。
世の中は明るい方向に向かっていると思った。
そうそう、万博のカナダ館は現地からロックバンドを連れてきて生演奏をしていて、当時ライブでロックを聞くなんてそうなかったから楽しかった。スキップ・プロコップ率いるライトハウスも来たという話ですが覚えていない。バンドの名前なんか忘れてしまってますが、この時に聞いた「イーライズ・カミン」はもうすごく恰好よかった。(のちにスリードッグナイトでヒット)
こんな感じの中に藤圭子の歌が忍び寄ってくる不思議ですわ。
8月のころにはエジソン・ライトハウスのラブ・グロウズもヒット。これもよく覚えている。この歌に関してはいくらでも書くことがあるのですがまた後日。
2013/08/31
2013/08/30
藤圭子 8
急に東京に行く用事が出来たから上の場所に行って拝んで来ようと思っている。場所は仕事で近所によく行っていたから大体勘所はある。
いろいろ週刊誌に書かれてあと2~3週間もすれば収束していくのだろう。
ネットに載ってきたものは読めるので適当に見ていたら、1970年の1年間が驚異的な人気沸騰で1971年になると急速にしぼんでいったと書かれてあることが多い。
その通りで、すでに書いたけれど、僕も1971年の3月くらいに出た「さいはての女」のLPを買って卒業したような感じであります。その後もテレビに出ていたら元気で活躍しているなあ・・くらいな感じで見ていた。まあ変な話、あれだけヒット曲があればそこそこ食えていけるだろうめでたしめでたしの感じだった(ほとんどの演歌歌手が自分の往年の大ヒットで食っているわけで、まあそういう生活をするのだろうと思っていた)
シングル盤「さいはての女」の前にもう1枚シングル盤が出ていて、それが普通の演歌歌手になったなあと思った記憶がある。それまでの4枚はすべて自分自身の歌のように思えた(1枚目は違ったと思うけれど)2枚目から3枚目、3枚目から4枚目とどんどん藤圭子が自分のことを歌っているような錯覚に陥っていた気がする(今から思えば)
青江三奈が伊勢佐木町ブルースを歌ってもご当地ソングねという感じで歌手がいろんな盛り場の歌を歌って当たればいいねという感じで聞いてしまいますが、藤圭子に抱いた感覚は全く違っていた。
1970年だけ「圭子ちゃん幸せになれてよかったね」とエールを贈っていたのかな???もう43年前の気持ちですからね・・・よくわからない。
ただですね、「自殺なんて個人の自己責任だ」ということで片付ければ簡単ですが、あの1年間の熱気が彼女に与えたものがなにか今回の結末に尾を引いてしまったと思えてならない。
だからなんか最近気がしんどいのですわ。
僕が気にしてもどうなるもんでもないのですけどね。
レコード(CD)が売れて増刷?だそうです。
確かに何をきいても魅力的です。
最近は「川は流れる」ばかり聞いてます。しかし当時(昭和35年くらいか)働きに東京に出てきた人はこういう感情を持っていたのかな・・・と別のことを考えたりね。
いろいろ週刊誌に書かれてあと2~3週間もすれば収束していくのだろう。
ネットに載ってきたものは読めるので適当に見ていたら、1970年の1年間が驚異的な人気沸騰で1971年になると急速にしぼんでいったと書かれてあることが多い。
その通りで、すでに書いたけれど、僕も1971年の3月くらいに出た「さいはての女」のLPを買って卒業したような感じであります。その後もテレビに出ていたら元気で活躍しているなあ・・くらいな感じで見ていた。まあ変な話、あれだけヒット曲があればそこそこ食えていけるだろうめでたしめでたしの感じだった(ほとんどの演歌歌手が自分の往年の大ヒットで食っているわけで、まあそういう生活をするのだろうと思っていた)
シングル盤「さいはての女」の前にもう1枚シングル盤が出ていて、それが普通の演歌歌手になったなあと思った記憶がある。それまでの4枚はすべて自分自身の歌のように思えた(1枚目は違ったと思うけれど)2枚目から3枚目、3枚目から4枚目とどんどん藤圭子が自分のことを歌っているような錯覚に陥っていた気がする(今から思えば)
青江三奈が伊勢佐木町ブルースを歌ってもご当地ソングねという感じで歌手がいろんな盛り場の歌を歌って当たればいいねという感じで聞いてしまいますが、藤圭子に抱いた感覚は全く違っていた。
1970年だけ「圭子ちゃん幸せになれてよかったね」とエールを贈っていたのかな???もう43年前の気持ちですからね・・・よくわからない。
ただですね、「自殺なんて個人の自己責任だ」ということで片付ければ簡単ですが、あの1年間の熱気が彼女に与えたものがなにか今回の結末に尾を引いてしまったと思えてならない。
だからなんか最近気がしんどいのですわ。
僕が気にしてもどうなるもんでもないのですけどね。
レコード(CD)が売れて増刷?だそうです。
確かに何をきいても魅力的です。
最近は「川は流れる」ばかり聞いてます。しかし当時(昭和35年くらいか)働きに東京に出てきた人はこういう感情を持っていたのかな・・・と別のことを考えたりね。
2013/08/28
藤圭子 7
一応終わりにしたつもりでしたが、もうちょっと書き足りなくて。
亡くなってから色々な記事が出てきて、娘さんが超大物歌手なだけに僕が思っていたのとちょっと違った反響があってとまどった。
毀誉褒貶ちりばめられてますが、なんでこんな記事を今更書くのかなと思うような超3流マスコミから芸能界の歴史としては燦然たる足跡を残した部分を正しく評価しているなと思えるまともな新聞社とか、今回藤圭子さんの死でマスコミのスタンスを再認識したという変な体験のおまけまでついた。
僕が思うのは歌がうまい娘さんが流されるがままに北海道で歌っていたら中央のプロダクションの目に留まり一挙にスターダムに上がり、しかも自分で制御できないくらいのモンスターになってしまって、ブームが去ればその残像との戦いだったのかなと思う。そしてひと段落ついたら、娘が母親以上のモンスターになってしまってまた戦いが始まってしまった。こうして書いているうちに浦沢直樹のモンスターを思い出してしまった。
いろいろネット上に各人の思い出が書き込まれてます。なかでも北海道の岩見沢のきらく園という温泉で中学生のころ歌っていたという場所は、今は全く取り壊されて荒野になってました。昔は地方をほんまのプロが来て(「〇〇〇来たる!!」という看板ですね)、その前座として地元のセミプロさんの仕事もかなりあったのではないかと推察します。
岩見沢というところも昔炭鉱で栄えた町で今は何とかターミナル都市として存在感を維持しているような感じです。周囲の美唄、砂川、夕張という町は兵どもが夢のあと的な町になってます。栄えた当時は炭鉱夫さん相手のミニ宴会も多く、藤圭子さんの両親も仕事があったのだろうと思う。
歌は世につれ・・・というナレーションがありますが、彼女の人生も大きな時代のうねりに翻弄されたのかなと思ってます。
この写真気に入ってます。
亡くなってから色々な記事が出てきて、娘さんが超大物歌手なだけに僕が思っていたのとちょっと違った反響があってとまどった。
毀誉褒貶ちりばめられてますが、なんでこんな記事を今更書くのかなと思うような超3流マスコミから芸能界の歴史としては燦然たる足跡を残した部分を正しく評価しているなと思えるまともな新聞社とか、今回藤圭子さんの死でマスコミのスタンスを再認識したという変な体験のおまけまでついた。
僕が思うのは歌がうまい娘さんが流されるがままに北海道で歌っていたら中央のプロダクションの目に留まり一挙にスターダムに上がり、しかも自分で制御できないくらいのモンスターになってしまって、ブームが去ればその残像との戦いだったのかなと思う。そしてひと段落ついたら、娘が母親以上のモンスターになってしまってまた戦いが始まってしまった。こうして書いているうちに浦沢直樹のモンスターを思い出してしまった。
いろいろネット上に各人の思い出が書き込まれてます。なかでも北海道の岩見沢のきらく園という温泉で中学生のころ歌っていたという場所は、今は全く取り壊されて荒野になってました。昔は地方をほんまのプロが来て(「〇〇〇来たる!!」という看板ですね)、その前座として地元のセミプロさんの仕事もかなりあったのではないかと推察します。
岩見沢というところも昔炭鉱で栄えた町で今は何とかターミナル都市として存在感を維持しているような感じです。周囲の美唄、砂川、夕張という町は兵どもが夢のあと的な町になってます。栄えた当時は炭鉱夫さん相手のミニ宴会も多く、藤圭子さんの両親も仕事があったのだろうと思う。
歌は世につれ・・・というナレーションがありますが、彼女の人生も大きな時代のうねりに翻弄されたのかなと思ってます。
この写真気に入ってます。
2013/08/27
藤圭子 6
これが4枚目「さいはての女」です。これもなかなかいいんですよ。1971年の年初だったかな。北海道出身の雰囲気に合って、裏のジャケットの写真も気に入ってました。ただね、このあたりから熱に浮かされていたような気持ちがぼちぼちと平静化されていく(僕個人としてもね、ぼちぼち本業?に戻ろうか…ピンクフロイドの次のがいいみたい・・というような感じになって行った)
ユーチューブに追悼版でいろいろと過去のテレビのシーンがアップされてます。まあよくこんなものを録画されてましたねというものもある。そういう意味で僕はいい加減なファンだったということですわ。
今日は1998年の11月5日に放映された「懐かしい歌とトーク」のいう番組を見ました。このなかの藤圭子はおしゃべりで(喋りすぎの感もあります)リズムに乗って体を揺らすし、僕の持っているイメージとは違う別人の藤圭子がおります。昔から素の姿はロック好きのお喋りの女の子だという噂が本当だったみたいです。この中で興味深い話がいっぱいあって、子供が帝王切開で生まれた話や初期の歌は真っ暗にして録音した話とか僕には新鮮なものばかりでした。
ただじゃあ本当に普通の女の子だったのかと言えばなかなかそうでなかったかもなあという気持ちも残っていまして、村上春樹の「村上朝日堂」の「僕の出会った有名人」から抜粋させていただくと・・・「ただ、この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかなという印象を、この時僕は持った」 と書かれてまして・・このあたり(有名であることになじめない)がいろいろ書かれてる奇行とかにもつながったのじゃないかなと思う。
僕も結構奇行癖っぽいものがあるけれどそれは何とか世の中と調和させるための人間の持っている自動調整機能の一部だと思えば別にどういうことはないと思ってます。(自己弁護かな)。生きようとする証でもあります。
なんか藤圭子さんの死で6回も綴ってしまいましたが、一応今回で終わろうと思います。
やっぱりかなり悲しい思いが強いですね。八代亜紀とデュエットしている姿なんて実にきれい。あらためまして冥福を祈りたいと思います。お疲れ様でした。
ユーチューブに追悼版でいろいろと過去のテレビのシーンがアップされてます。まあよくこんなものを録画されてましたねというものもある。そういう意味で僕はいい加減なファンだったということですわ。
今日は1998年の11月5日に放映された「懐かしい歌とトーク」のいう番組を見ました。このなかの藤圭子はおしゃべりで(喋りすぎの感もあります)リズムに乗って体を揺らすし、僕の持っているイメージとは違う別人の藤圭子がおります。昔から素の姿はロック好きのお喋りの女の子だという噂が本当だったみたいです。この中で興味深い話がいっぱいあって、子供が帝王切開で生まれた話や初期の歌は真っ暗にして録音した話とか僕には新鮮なものばかりでした。
ただじゃあ本当に普通の女の子だったのかと言えばなかなかそうでなかったかもなあという気持ちも残っていまして、村上春樹の「村上朝日堂」の「僕の出会った有名人」から抜粋させていただくと・・・「ただ、この人は自分が有名人であることに一生なじむことができないんじゃないかなという印象を、この時僕は持った」 と書かれてまして・・このあたり(有名であることになじめない)がいろいろ書かれてる奇行とかにもつながったのじゃないかなと思う。
僕も結構奇行癖っぽいものがあるけれどそれは何とか世の中と調和させるための人間の持っている自動調整機能の一部だと思えば別にどういうことはないと思ってます。(自己弁護かな)。生きようとする証でもあります。
なんか藤圭子さんの死で6回も綴ってしまいましたが、一応今回で終わろうと思います。
やっぱりかなり悲しい思いが強いですね。八代亜紀とデュエットしている姿なんて実にきれい。あらためまして冥福を祈りたいと思います。お疲れ様でした。
2013/08/26
藤圭子 5
記念すべき1枚目のLPレコード、シングル盤より意外とこれが売れた。僕が購入するのはずいぶん経ってからのことである。
このレコードの特徴は他人の演歌を藤圭子が歌って、結果的にオリジナルを凌駕していた点だと思う。当時からオリジナルを歌っていた歌手が拗ねているという冗談とも本気ともとれる噂話を聞いた。18の小娘の方の歌のほうが迫力があってはまあ顔面蒼白の事態ですわな。でも聞き手にとってはそんなことどうでもよくって「いいものはいい」から藤圭子の方を買ってしまう・・ということで結果的に演歌界には居づらかったという話もきいたような(すべて喫茶店の週刊誌で読んだ記憶です)。
考えてみたら他人の歌を発掘して大ヒットさせるというのは(僕の得意のジャンルでいえば)ロッド・スチュアートなんかがそうだったと思うけど、藤圭子のは埋もれた作品でなくそこそこヒットした曲をそのまま歌うのやからまあなかなか難しいところがあったのかなと(今更どうでもいい話ですが)
訃報から4日ほど経つがなんか気持ちがすっきりしない毎日が続いている。彼女らしい終わり方だったなと納得する時もあったり、いやいやもっと普通の人生を送るように周りの人たちが工夫してやったらよかったのではと思ったり。
もちろん本人の真の姿などこちらは全く見当もつかないけれど、細切れながら目にする情報から考えたら、社会通念の考え方と随分とずれてしまってるなあと思うことが多い。よく巷で言われる遊ぶのも芸のうちだとか、芸能人の破天荒な生活とはちょっと違っていると思えてならない。
僕は普通は紅白歌合戦は見ないけれど、1971年の紅白歌合戦の藤圭子が出たシーンは家族が大声で呼んだからテレビの部屋まで見に行った。当時の婚約者だった(と思う)前川清が急病のため出られず。藤圭子が前川清の「港の別れ唄」を代理で歌ったときは何を歌っても上手いなあと思った。いまでもこの時のシーンがふとよみがえる時がある。クールファイブとのコラボのレコードも売れました。ですから1970年のLPチャートはほとんど藤圭子です。52週のうち〇%だろうか?
なんか作られたままごとのカップルみたいでしたが意外と似合っているかもなあと当時は祝福したものである。
このレコードの特徴は他人の演歌を藤圭子が歌って、結果的にオリジナルを凌駕していた点だと思う。当時からオリジナルを歌っていた歌手が拗ねているという冗談とも本気ともとれる噂話を聞いた。18の小娘の方の歌のほうが迫力があってはまあ顔面蒼白の事態ですわな。でも聞き手にとってはそんなことどうでもよくって「いいものはいい」から藤圭子の方を買ってしまう・・ということで結果的に演歌界には居づらかったという話もきいたような(すべて喫茶店の週刊誌で読んだ記憶です)。
考えてみたら他人の歌を発掘して大ヒットさせるというのは(僕の得意のジャンルでいえば)ロッド・スチュアートなんかがそうだったと思うけど、藤圭子のは埋もれた作品でなくそこそこヒットした曲をそのまま歌うのやからまあなかなか難しいところがあったのかなと(今更どうでもいい話ですが)
訃報から4日ほど経つがなんか気持ちがすっきりしない毎日が続いている。彼女らしい終わり方だったなと納得する時もあったり、いやいやもっと普通の人生を送るように周りの人たちが工夫してやったらよかったのではと思ったり。
もちろん本人の真の姿などこちらは全く見当もつかないけれど、細切れながら目にする情報から考えたら、社会通念の考え方と随分とずれてしまってるなあと思うことが多い。よく巷で言われる遊ぶのも芸のうちだとか、芸能人の破天荒な生活とはちょっと違っていると思えてならない。
僕は普通は紅白歌合戦は見ないけれど、1971年の紅白歌合戦の藤圭子が出たシーンは家族が大声で呼んだからテレビの部屋まで見に行った。当時の婚約者だった(と思う)前川清が急病のため出られず。藤圭子が前川清の「港の別れ唄」を代理で歌ったときは何を歌っても上手いなあと思った。いまでもこの時のシーンがふとよみがえる時がある。クールファイブとのコラボのレコードも売れました。ですから1970年のLPチャートはほとんど藤圭子です。52週のうち〇%だろうか?
なんか作られたままごとのカップルみたいでしたが意外と似合っているかもなあと当時は祝福したものである。
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