2022/07/18

1977.7.18

 

45年前の1977年7月18日、僕は広島から帰ってきて京都の中小企業に転職した。資本金1600万円、売上150億円くらい。前の東洋工業は当時は倒産の危険があったとはいえ広島を代表する企業で、結果的に住友銀行がフォードとくっつけて救済して今の「マツダ」がある。
資本金が1600万円???ちょっと想像できなかった。大丈夫ですか??でも電気の部品だったので業界的にはいけそうな気がしたので勤める気になった。
脱線するけど、当時は大学を出て勤めたら転職なんかしないのが当たり前の時代で、大学の悪友で転職したのは多分僕だけで、他は定年まで勤めあげた連中ばかりである。そんなもんでゼミの先生はそんな聞いたことのないちっぽけな会社に行って大丈夫かと心配してくれた。年賀状にはいつも「がんばってください」と書かれていた。
京都の会社は名前を「東洋電具製作所」といった。続けて「東洋」がつくのも何かの因縁かと思った。不思議なことに、僕は京都で生まれて小学生3年の時に大阪の茨木に引っ越して、大学を出て広島に移った。今度の京都に会社は、僕が生まれたところの駅で降りて歩いて行っていた。小学3年までいた景色を見ながら通勤するようになったわけである。不思議な気がした。(また、脱線、僕の生まれた場所にはワコールの本社ビルが建っている。西大路の駅から地下道を潜り抜けるとまたワコールのビル(昔はこちらが本社だってはず)を横に見ながら毎日通勤していた。当時は規模的には比較にならなかったけれど、市場規模(下着と電子部品)が全然違うので数年後には売り上げで勝つと思いながら歩いていた。その通りになりましたけど)
入社当日(1977.7.18)、初日から仕事はしないだろうと思っていたけれど、一応、経理で採用だから、当時はそろばん、さらに電卓(まだまだ高価だった。しかも8桁)、中央経済社の会計法規集を持っていった。後日談になるが、会社の人は法規集を持ってきたので驚いたようである。
午前は入社手続きをして、昼は多分社員食堂で食べて、お昼から会社の業務の説明を受けたように思う。
久米さんという課長さんが「原価計算」の話のなかで、現場を見に連れて行ってくれた。車を作る現場と電気の部品の現場は、なんといっても物の「大きさ」が違って工場の広さの感覚の差に驚いた。トランジスタのファイナルテストで製品を見て、あほみたいに沢山の製品があって、こんなものがどんどん売れていくのが実感として湧かなかった。
高岡さんという現場の責任者さんがいろいろと説明してくれて実に面白かった。広島にいた時は広島弁の世界で結構圧倒されていたけれど、京都弁の世界は小学3年までとはいえ、懐かしくもあり、広島弁の「怖さ」に対してこちらの「柔らかさ」を感じて初日は終わったように思う。ちょっとどうなるか分からない2回目のサラリーマン生活が始まった。
結果的には、12年間務めた、この12年間に会社は社名変更をして業績を上げ株式上場を果たし、日経プリズムの好感度日本一にも輝く(一回だけですが)会社になった。一番楽しい時期にいたことになる。でも結局辞めてしまいましたけど。人生「山あり谷あり、苦あり楽あり」とはよく言ったものである。

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